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香港/澳門/広東 日本人の物語

日本初の聖書邦訳に関わった山本音吉らの物語

香港/澳門/広東  日本人の物語⑷ 漂流民世界一周

~日本初の聖書邦訳に関わった山本音吉らの物語~

一八三八年七月、浦賀沖に三本マストの異国船が現れた。米オリファント商会のモリソン号で、日本人漂流民を送還し、幕府との開国交渉に臨む計画だったが、有無を言わさず砲撃され、薩摩でも打ち払われマカオに引き返した。世にいうモリソン号事件である。(*1)

和仁廉夫(わにゆきお)

宝順丸漂流(1832年)に始まる音吉ら三吉の航海は
モリソン号事件(1838年)をもって世界を一周したことになる。
2025年1月、廻船と音吉記念館展示を筆者撮影

 

尾州廻船宝順丸の遭難

異国船には一八三二年に遠州灘で遭難し、十四カ月後米西海岸のワシントン州フラッタリー岬に漂着した宝順丸の岩吉(岩松)・久吉・乙音(音吉)の三吉と、一八三六年に肥前天草(佐賀県)から肥後(熊本)にサツマ芋を回航する途中で遭難し、フィリピンで救出された庄蔵・寿三郎・熊太郎・力松の四人の計七人が乗り合わせていた。

宝順丸は千五百石積の千石船だ。著名な菱垣廻船や樽廻船が水運専業だったのに対し、後発の尾州廻船は自ら上方で買い付けた商品を江戸で売り捌き、江戸前で仕入れた商品を上方で売るノコギリ商内(あきない)で莫大な利益を得ていた。(*2)

江戸は世界最大の百万都市。廻米は急務であった。米を満載した宝順丸は志州(志摩国)鳥羽港で好天を待ち、十月十一日に出航した。

しかし遠州灘で嵐に遭い遭難。帆柱を切り、積み荷を次々と捨てて難破は免れたが、舵を失い太平洋を漂流した。食糧はあり、海水から「せんびき」で真水を得る技術もあったが、野菜不足による壊血症で一人また一人と倒れ、十四カ月後に米西海岸ワシントン州オリンピック半島フラッタリー岬近郊のケープアラバに漂着した時には、上述の三吉だけが生き残った。(*3)一帯は二〇一一年三月の東日本大震災のおり、青森県の浮さん橋が漂着した場所でもあった。(*4)

航海の守り神である澳門の阿媽廟。
七人の日本人漂流民も当然祈願に訪れたであろう

 

マカオ拠点に帰国窺う

アメリカ原住民マカ族は宝順丸の積荷を奪い三吉を奴隷にしたが、米商人を経てハドソン湾会社のマフラクリンに救出された。当時、米国はフロンティアが消失し、鯨油需要から太平洋捕鯨に沸いていた。日本人を送還し、幕府の海禁政策に風穴を開ける思惑もあった。(*5)

聡明な音吉は米人たちに気に入られた。幼い頃から宝順丸船主樋口家に住み込みで仕え、娘琴の寺子屋通いに付添い、読み書き算盤を会得した。来客の接待も任され、商いのツボも心得ていたようだ。ゆくゆくは音吉を養子に迎える意向もあったという。(*6)

音吉らはイーグル号でロンドンに渡り、さらにゼネラルパーマー号でポルトガル領マカオに渡り、ドイツ人宣教師ギュッラフのもとで帰国の機会を窺った。マカオではルソン島で救出された庄蔵ら九州組の四人とも合流した。当時マカオは東アジアにおけるヨーロッパ唯一の拠点だった。(*7)

廻船と音吉記念館入口。私設のため、参観は予約制。
2025年1月。筆者撮影

 

「ござる聖書」の世界

近代史は、プロテスタントの世界布教と密接に関わる。(*8)

打ち払われたモリソン号の船名となった英人モリソンは中国布教の草分けであり、蘭学者高野長英・渡辺崋山らはモリソン号を英船と誤解し、幕府の打ち払いを批判して弾圧を受けた。(*9)音吉らを保護したドイツ人宣教師ギュツラフも東洋布教を使命に、マレー語・中国語など多言語に通じていた。ギュツラフは三吉から日本語を学び、聖書の邦訳を手伝うよう求めた。後にシンガポールで出版された『ヨハネ伝』『ヨハネの手紙』は最初の邦訳聖書である。(*10)

「ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル」(*11)

カタカナ綴りの『ござる聖書』には音吉らの苦心が偲ばれる。(*12)

初の聖書邦訳を称え日本聖書協会が建立した三吉頌徳記念碑。
2025年1月、愛知県美浜町小野浦で筆者撮影

 

三吉頌徳記念碑の裏面碑文

 

幕末外交の裏方として

モリソン号事件後、三吉はマカオでギュッラフのもとに、九州組は米人ウイリアムズに引き取られたが、熊太郎はその後消息が途絶え、寿三郎はアヘン中毒で客死した。

当時、清国から絹織物を輸入していた英国商人たちは銀の流出に苦しみ、インド産のアヘンを売りつける三角貿易に手を染めた。だがアヘン吸引は廃人をつくり、人を死に追い込む。林則徐がアヘンを焼き払ったのは当然のことだったが、アヘン戦争に敗れ、一八四二年の南京条約で香港は英国に割譲された。屈辱の歴史の始まりである。(*13)(*14)

香港開港後、ギュッラフは香港政庁の仕事を得た。音吉はデント商会の倉庫番として上海に渡り、庄蔵・力松は香港に移住した。

一八五三年、米国のペリー提督は艦隊を率いて浦賀沖に現れ、幕府に開国を迫った。翌年ペリーは再来し、幕府は黒船の威圧を前に日米和親条約に調印した。(*15)

音吉は上海で摂津英力丸漂流民一行を保護するなど日本人漂流民の帰国に尽力したほか、スターリングが長崎で日英和親条約の交渉に臨んだおりには林阿多の中国名で通訳をつとめた。のちに音吉はシンガポールに移住し、同地に立ち寄った文久遣欧使節団を訪ねて森山栄之助や福沢諭吉に強烈な印象を与えた。(*16)(*17)

遭難した宝順丸とほぼ同型の千石船模型。
積載量に優れたが、風と浸水に弱く遭難が多発した。
2025年1月、廻船と音吉記念館で筆者撮影

 

遙かなるニッポン

一八六七年一月、音吉はシンガポールで病死したが、その墓所は都市計画で消失し、長く移転先は不明だった。二〇〇四年にシンガポール国立墓地で発見され、同国政府は音吉の遺骨発掘を許可した。二〇〇四年斎藤宏一美浜町長(当時)や音吉の遺族ら《音吉の会》八十人が訪れ、遺骨はシンガポール日本人墓地公園納骨堂と、美浜町良参寺の宝寿丸遭難者の墓、遺族山本家墓所の三カ所に分骨された。

また、日本聖書協会は音吉らの遺徳を称え、美浜町小野浦に《岩吉・久吉・乙吉頒德記念碑》を建て、毎年顕彰活動を続けている。(*18)

最後に音吉の遺児に触れておきたい。遺児ジョン・ダブリュー・オトソンは一八七九年神奈川県横浜で日本国籍を申請し、山本音吉を名乗り、日本女性と結婚した。(*19)しかし日本の風俗習慣には馴染めず、晩年は妻と台湾で暮らし、一九二六年に召天した。亡父の遺言は守られたが、二世には日本が遠かったようだ。(文中敬称略)

禅林山良参寺境内にある宝順丸殉難船員の墓。
木札無くしては見落すような小さな墓に14名の名前を刻む。
2025年1月 愛知県美浜町小野浦で筆者撮影

 

【註・参考文献】

(*1)相良良一『天保八年米船モリソン号渡来の研究』野人社一九五四年

(*2)企画展示資料『近代を開いたあいちの海運』愛知県図書館二〇一九年

(*3)マクドナルド『日本回想記~インディアンの見た幕末の日本』刀水書房一九七五年

(*4)斎藤善之「遥かなる大海原を越えて』『水の文化73号』ミツカン水の文化センター二〇二三年

(*5)樋口浩久『音吉の生涯』廻船と音吉資料館二〇二五年一月入手

(*6)編纂委員会「モリソン号事件」『明治学院百五十年史』明治学院二〇一三年所収

(*7)大森仁・東田麻希『歴史絵本 日本に帰れなかった男たち』音吉の会二〇〇二年

(*8)Mウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店一九八九年

(*9)田中弘之『蛮社の獄のすべて』吉川弘文館二〇一一年

(*10)善德纂『約翰福音之傳』新加坡堅夏書院一八三七年

(*11)倉永真「聖書邦訳史」『日本の英学百年明治編』研究社出版一九六八年

(*12)重久篤太郎『日本近世英学史』教育圖書株式会社一九四一年

(*13)古泉達也『アヘンと香港』東京大学出版会二〇一六年

(*14)内田知行・権寧俊編『アヘンから読むアジア史』勉誠出版二〇二一年

(*15)合衆国海軍編・大羽綾子訳『ペリー提督日本遠征記』法政大学出版局一九五三年

(*16)斎藤宏一「開国への扉を外から叩いた男–幕末の漂流民、音吉」『オーシャン・ニューズレター328号』所収 笹川平和財団二〇一四年

(*17)福沢諭吉「西航記」『福沢諭吉選集第1巻』岩波書店一九八〇年

(*18)日本聖書協会HP二〇二五年二月閲覧

(*19)『東京日日新聞』一八七九年六月十八日記事

ほかに、春名徹『にっぽん音吉漂流記』晶文社・中央公論社一九七八年・一九八八年

陳湛頤『日本人與香港 十九世紀見聞錄』香港教育圖書公司(中文繁體)一九九五年

 

筆者・和仁廉夫(わに・ゆきお)
1956年東京生まれ。香港で第2次大戦期の日本占領史跡などを扱った『歳月無聲』(花千樹出版・中文)を出版。中国ミスコンに関しては、「広州『姿』本主義〜香港返還もう一つの意味」(霞山会『東亜』2009年9月号)がある。

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