協会41年のこれまでの活動を通して、皆様に香港の日本料理店の変遷と協会の活動をお伝えしながらこれからの業界の発展に協会がどう取り組んでいくかを考えます。今号では戦前から1970年代までの香港の日本料理店とそれを取り巻く環境がどうであったかをお伝えします。お付き合いいただきましたら幸いです。
戦前~1960年代
――日本料理店の先駆け
香港に初めて日本料理店が登場したのは、20世紀初頭と言われています。
1873年(明治6年)には現在の在香港日本国総領事館の前身となる日本領事館ができており、当時日本からヨーロッパに向かう商船が補給地として立ち寄っていた香港に、日本人商人や船員向けの宿泊施設として数件の日本旅館があり、その中にあるレストランが香港における日本料理店の先駆けとされています。
日本の敗戦によって日本人向け施設も姿を消しました。戦後の1952年になって日本国総領事館が再オープンし55年に日本人駐在員向けに会員食堂と共に日本人クラブがオープンしました。
――本格的日本料理店の登場
戦後初めて香港に独立した日本料理店が開店したのは1959年の「東京レストラン」でした。当時の商業観光の中心地であった尖沙咀の高級ホテル、インペリアルホテルの最上階にあって、日本人スタッフと日本から輸入した食材を使った料理、内装からスタッフのユニフォームまで全て日本づくし…、というこのレストランは開店当初から香港中の話題をさらったそうです。
翌60年には同じく尖沙咀のハイアットリージェンシーの地下に「名古屋レストラン」が、64年にはミラマーホテルに「金田中」が相次いて開店し、それぞれ日本料理店の先駆けとして人気を博したそうです。
一方、香港島側が発展しはじめたのもこの頃で60年暮れに銅鑼湾に開店した香港大丸には、新大阪ホテルが経営する日本料理店も併設され、すでにあった日本人クラブ内のレストランと並び香港サイドに住む駐在員が日本料理を楽しめる場所となりました。
ただ、当時の香港経済はまだ発展途上で大丸の販売員の月給が180ドル~240ドル。すき焼き一人前が80ドルしたといいますから当時の一般市民にとって日本料理はまさに高根の花だったようです。現在のように日本の食材が手軽に入手できず、食材はすべて輸入に頼っていたことによるものですが、日本料理の価格設定も当時の物価価値と比べるとずと高くならざるを得ず、日本料理は日本人駐在員と一握りの裕福な香港人だけのものだったようです。その金持ちでさえ「日本料理を食べた」と言えば一カ月は話題に困らなかったそうです。
1970年代
――高度成長期と日本料理店の増加
1970年代に入っても、引き続き日本料理は香港の一般市民にとっては手の届かない存在でした。香港にも高度経済成長期がおとずれ、長江実業グループを率いる李嘉誠氏が「ホンコンフラワー(造花)」で活躍し、紡績業の発展による安価な衣料品の輸出で香港が栄えた時代でした。
この頃、尖沙咀の名古屋レストランの元板長が独立し、セントラルに「大和」(「大阪」の前身)を構えます。また「金田中」の姉妹店として72年に開店した「岡半」は鉄板焼の専門店として香港に鉄板焼ブームを巻き起こすなど香港の経済成長に歩調を合わせるように、日本料理店も着実に数を増やしていきました。
――スタッフ引き抜き合戦 そして協会設立へ
数こそ増えたものの当時の日本料理店間には横のつながりもなく、従業員の労務環境や、生ものを料理として提供する店舗の衛生状態に目を光らせる保険所とのやりとり等、日本料理店経営者はすべて手探りでそれぞれのお店で孤軍奮闘していました。
特に問題になったのは、各店間の従業員の引抜合戦でした。はるばる日本から連れてきた料理人、あるいは数か月から数年かかって日本料理の一から教えたローカル従業員がやっと一通りの仕事を覚えこれから活躍してもらおう、という時に、ライバル店に高給で引き抜かれてしまいます。あるいはそれを防ぐために従業員の給与がどんどん上がっていきました。日本料理店のシェフの給与は、中華やその他のレストランで働いた場合の数倍に跳ね上がっていったと言われていました。これが経営上の大きな問題となっていたばかりでなく、ライバル店との間を行き来する従業員の人間関係にも悪影響を及ぼしていきました。
また、当時の香港の人口が約数百万人にのぼる中、日本料理店の客のほとんどを占める在香港日本人は約1万人。この少ない人数を多数の日本料理店で取り合っていたのではいかにおいしく手頃な価格の料理を提供しても、店の経営戦略上やはり限界というものがあります。先の従業員の引き抜き合戦問題もあり、日本料理店同士、手を組んで共存共栄を図るとともに、客のすそ野を広げより多くの香港の人たちにも日本料理を食べに来てもらおうと、日本料理店経営者有志が集まったのが1979年8月のことでした。
もちろん、集まったからと言ってすぐに話がまとまったわけではありません。志は同じでもそれまで互いにライバルとして味の優劣を競い、お客さん、そして従業員を取り合ってきた者同士がすんなりと手を組めるかというと決してそうではありません。このころ開店し始めた「日本料理」をうローカル経営の店を会員に認めるか否か、また各店が店の規模に関わらず公平な立場で参加できるかどうか等、様々な課題が発生しました。それらを会合を重ねながら一つ一つの課題を解決し、従業員規則や教育問題、各日本料理店間の情報交換等、活発な討議が交わされる中、このような会合を持続し種々の活動も組織的に行っていきたいとの声が上がっていきました。
そこで当時あった日本料理店24店(日式を除く)中、17店の代表者、および日本料理店と取引のある企業・商店等が参加し、全員の総意のもとに協会の設立が決定しました。
会長には「大和」代表の梶田聖氏、秘書に「大関」代表のフランキー・ウー氏、顧問に「金田中」代表の柴田光次郎氏、会計にはサッポロビールの金子章臣氏(いずれも肩書きは当時)を選任した上で香港政庁に協会設立の認可を申請し、正式に協会が設立されたのは1979年12月18日のことでした。
後に日本の「全国料理業環境衛生組合連合会」の海外支部として当時の厚生省の認可をいただきました。
以上が、戦前から1970年代までの香港の日本料理ならびに日本料理店を取り巻く環境と協会設立の生い立ちです。
次号では1980年代から90年代の香港の日本料理店を取り巻く環境が大きく変わる様子をお伝えします。だんだん日本料理が香港市民に受け入れられるようになった頃に日本料理界にとって大きな問題が発生します。
(このシリーズは2カ月に1回掲載します)
コーヒーブレーク
★回転寿司の開店は早すぎた?
香港人経営の日本料理店が現れ始めた70年代末、日本に留学経験のある香港人が尖沙咀に回転寿司の店をオープンさせました。斬新なスタイルは当然話題となり、店も数店に増えたものの、ネタがあまり新鮮でなかった上、今の回転寿司に比べるとかなり値段も高めでした。何より当時の香港人はやっと刺身にも慣れたころで時期尚早だったのでしょう。生ものに対する「壁」も厚く、回転寿司がブームとなって香港人に受け入れられたのは刺身や寿司が浸透する90年代に入ってからのことでした。
コーヒーブレーク
★鉄板焼ブーム
鉄板焼は目の前で音を立てながら調理されるダイナミック&豪華さと、食材に火が通っていることから香港人に好評を博しました。しかしその食材は日本から輸入した神戸牛や高級海鮮で、ホタテ貝が一つ150ドルという高さでした。また「煙と匂いが髪や洋服にうつる」と敬遠されました。同じ理由でブームにならなかったのが焼き鳥。煙の他に焼き鳥に似た東南アジア料理「サテー」が1ダース12~13ドルなのに対し、焼き鳥は一串6~8ドルという値段の高さがネックとなり「高いわりに量が少ない」ということで次第に人気も下火になっていったそうです。今の時代では鉄板焼も焼き鳥も一般市民に浸透し上記のような声が聞こえてこなくなったのも日本食が香港市民に深く浸透している証左ではないでしょうか?

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筆者紹介
氷室利夫(ひむろとしお)
1985年法政大学卒業後、山一證券入社。1989年10月香港支店へ。95年山一證券を香港で退職。2003年のSARS後にZen Foodsの前身Tei Enterprises Ltd.を設立。現在Zen Foods Co., Ltd.会長。香港日本料理店協会会長
www.hkjra.com
info@hkjra.com
写真1、2、3:1980年2月8日の地元紙の切り抜きより。協会発足の経緯などが報じられている

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