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知ってナットク! 在港邦人史

知ってナットク! 在港邦人史

ギュツラフの墓 Karl F.A. Gützraff 1803~1851 Happy Valley競馬場の入口Cの対面が墓地入口。入って右に折れてすぐの場所

200年前の香港に定住した日本人
原田庄蔵の生涯(後編)

香港最初の定住日本人となった原田庄蔵一行も、漂流から8年を経た1845年、香港での定住生活が始まりました。

では、彼らが香港での定住を開始した当時の香港はどんな状態であったかを時代背景として若干述べてみたいと思います。

1841年1月20日、チャールズ・エリオット大佐が率いる英国軍が香港島を占拠しました。上陸地点は上環の水坑口街 (Possession Street) です。アヘン戦争の真っ最中です。そして、アヘン戦争が終結した1842年8月29日、南京条約の締結によって、既に占拠されていた香港島は正式にイギリスに永久割譲され、時のイギリス女王の名を冠して「ビクトリア市」と命名されました。

ただ、ビクトリア市と名前はいかめしいのですが、実際は海岸線に沿った極めて狭く細長いエリアだけでした。西地区が中国人街、中央がイギリス街、そして何もなかった湾仔の関所を超えた東側の銅鑼湾がジャーディンマセソン王国といったように大きくは3地区に分かれておりました。そして、夫々の地区が物すごい勢いで開拓されていきましたが、依然として疫病と悪臭が激しく、悪党がする荒々しい町に庄蔵一行はやってきました。西部開拓時代、土ぼこり舞う町にふらりとやってきた4人の流れ者。

さて、いよいよ庄蔵一行の話に入っていきます。

1845年、香港に移住した庄蔵一行は、中環と上環の境目当たりに住居を構えたと思われます。後年(1852年)、ぺリー率いる第二次日本遠征隊は香港から出発しましたが、庄蔵一行で一番若く30歳位になっていた力松が遠征隊の旗艦であるサスケハナ号を訪れ「我々は、湊の上の方にある関帝廟のそばに住んでいる」と言った事から推測されます。

因みに、このサスケハナ号は、黒船襲来で有名になった黒船4隻の旗艦でもありました。全長が76メートルの大型蒸気船です。当時の日本で最も大きかった千石船が全長24メートルでしたので、その3倍。やはり大きかった。

力松が言った関帝廟とは、まさしく文武廟のことで、この廟は香港最古の道教寺院として有名ですが、当時アヘン、海賊、賭博などあらゆる悪事を働いて巨万の富と権力をにした事で悪名が高かったものの、他方慈善事業にも熱心だった盧亜貴が建立しました。庄蔵達が香港に定住してから2年後の1847年の創建です。当初は貧困者層の宿泊、診療所としての施設も兼ね備えておりました。因みに、この盧亜貴は1846年にアヘン販売の独占権を得ておりますが、独占制度初年度であった1845年の独占権を得たのがイギリス人のジョージダデルで、彼も大変悪名高い男でした。土地ころがしで手に入れた場所の通りに今も彼の名を残しております (Duddell St., Central)。面白いですね。悪人の名前でも通り名に付けて、そのまま170年も変えていない。日本だったら、例えば五右衛門通りとか、次郎吉通りとか…。

1845年当時の香港の中国人の人口は、家族が25世帯、娼婦の館が26軒で、あとは、独身、単身で大陸から流れ込んだ無数の中国人でした。因みに占領直前の1841年の香港の人口は7450人でした。

香港島の中でも英国人が開拓、居住した地域(今の中環から銅鑼湾までの海岸沿いの狭い帯状の一帯)は、気候の関係から特に疫病、悪臭などが激しく、1840年代にロンドンでった歌の一節にはこうあります。
You may (or can) go to hong kong for me (私のなら香港にだって行けるわよね!)
Go to hong kong (地獄に堕ちろ!)

ペリーは1854年に再び日本に来航し、日米和親条約が締結されましたが、この時の通訳が庄蔵一行を扶養し、この時は広州の教会に居住していたウイリアムズ牧師でした。ひょろりとせて背が高かったと記録にある彼は、日本語のレベルが庄蔵一行に習った程度と低い事から通訳に不向きと固辞したものの、わざわざ広州まで来て三顧の礼を尽くしたペリーの熱心さ、強引さに根負けして通訳を引き受けましたが、事実、彼のレベルでの日本語では充分に通訳の務めを果たせませんでした。

さて、庄蔵ですが4人の中では一番成功しました。洗濯業と裁縫業を手広く展開し、3階建の家に、アメリカ人の夫人と息子と住んでいました。夫人が白人だったのか、いは中国系だったのかは不明です。

彼はマカオでギュツラフの影響を受けてキリスト教に改宗しました。マカオではなクリスチャンとしてギュツラフの聖書翻訳作業を助け、その後の香港でも引き続き5年を掛けてマタイ伝の日本語訳に成功しました。その奥付にこう記されております。

ギュツラフの墓 Karl F.A. Gützraff 1803~1851 Happy Valley競馬場の入口Cの対面が墓地入口。入って右に折れてすぐの場所ギュツラフの墓 Karl F.A. Gützraff 1803~1851 Happy Valley競馬場の入口Cの対面が墓地入口。入って右に折れてすぐの場所

 

馬太福音傳於
道光30年正月吉日
ジイサアス1850年譯於
原田庄蔵 日本肥後國川尻中島町 茶屋

このマタイ伝は偶然にも昭和13年に長崎で発見されました。現存する日本最古の日本語訳聖書となっております。なお、1850年の刊行となっておりますが、当初の共同作業者であったギュツラフは同年の1850年にマカオから香港に移り住み、翌年の1851年に香港で病死します。享年48歳でした。聖書刊行はギュツラフへの鎮魂になったことでしょう。

ギュツラフは、中国を訪れた最初の西洋人であり、外交官としても活躍しましたが、実際には敬虔で影響力のあるキリスト教伝道師で、日本人にはなじみの深いリビングストンやシュバイツァーなどにも大きな影響を与えています。また大変な語学の天才で、日本語についても庄蔵達から日本語を学び、上記の通り聖書の日本語訳などもおこなっております。また、彼の功績を称え中環にある通りにギュツラフの名が冠せられております。Gutzraff Street (吉士笠街)で、長いPedestrian Escalatorで登っていく途中の右側の細い通りです。ギュツラフの肖像は4月号に掲載されています。

彼の葬儀には日本人も参列したとあります。熊本組4人のうち熊太郎は香港に移住した直後の1845年に病死した模様です。従い参列した日本人は庄蔵をはじめとする残り3人だったでしょう。ひょっとしたら、寿三郎は既にアヘン吸飲患者になっていた可能性もあるので、参列者は庄蔵と力松の二人のみであったかも知れません。

庄蔵は、そのほかにも色々と活発な人生を送っております。

なかでもすべきは、一獲千金を夢見たのでしょうか、中国人の苦力10数人を引き連れて、太平洋を越えて、ゴールドラッシュに沸くカルフォルニアまで金採掘に行ったことです。咸臨丸の話は皆さん良く御存知かと思いますが、その咸臨丸の日本出航が1860年でしたので、それより8年ほど前、既に庄蔵という日本人が自らの意志をもって太平洋横断を成し遂げていた訳です。

ゴールドラッシュは1848年に始まり1852年にピークを迎えました。庄蔵が渡米したのは何年かは不明ですが、恐らく、マタイ伝を書き上げ、加えて1951年のギュツラフの葬儀に参列し、ほっとした後の1852年頃でしょうか。

1853年にやはり漂流民として香港に立ち寄った「永久丸」乗員2名の世話をしております。カルフォルニアから帰ったばかりでしょうか。彼らの証言によると当時44歳であった庄蔵は20歳ほども若く見える円満でほのぼのとした男であったそうです。とても遥々アメリカまで金を求めて飛び出して行くといった大胆な行動に似つかわしくないであったのでしょう。それにしても小説、映画の主人公にもなり得る、波乱万丈の生涯をしく生き抜いたすごい男ですね。

ただ、この証言を最後に庄蔵の足取りは途絶えております。

1860年には日米和親通商条約を締結した一行77名(福沢諭吉も随行者の一人)、および1862年に派遣された遣歐使節団(36名)が短期間ながら香港に寄港して、香港市内を歩き回っておりますが、彼らの日誌には庄蔵等の名前は全く出てきません。未だ鎖国令が生きていたので使節団の前に姿を現すことは大変危険と思い、逆に身を隠していたのでしょう。

要するに彼を描写する資料がその後はなかったという事です。日本領事館が開設されたのが明治6年(1873年)で、その時の香港在住の日本人は8名(12名とも)ですが、その中に庄蔵の名前も、その家族の名前もありません。庄蔵も家族も香港籍として名前も変えていた事でしょう。庄蔵が存命であったとしたら64歳の時です。脱国者の名を恥じたのか、或いはいまだ捕縛されるとの恐れがあったのか、名乗り出る事もなく明治政府の知るところなくして巷中に没したのでしょう。墓石も見つかっておりません。

さて次は力松です。

その言動が日本人とは異っていたためか、香港に立ち寄った他の漂流日本人などに不信感を与えていたようです。しかし、彼が漂流をしたのがか13歳。日本人としての教育も充分に受けられないまま、マカオ、香港と渡り歩き、キリスト教を信じ、アメリカ女性と結婚した男ですので、当時の日本人とは、考え、感覚が大きく異なっていたのは至極当然であったでしょう。性格は極めて真面目で善意の人であったとの言い伝えがあります。

アメリカ人女性と結婚し3人の子供をした力松は、「諸国評判記」を出版している会社に勤めておりました。日本語、英語、広東語に通じていたのでしょう。1855年、ロシア艦隊を求めて索敵行動中であったエリオット提督率いるイギリス遊撃艦隊に通訳として乗り込んだ35歳の力松は、この艦隊が函館に寄港した時の通訳として活躍しました。

ただ、その通訳ぶりですが、同乗していたイギリス軍人の表現によると、力松の英語は「全会談内容をぼろ布のように、たどたどしく、ばらばらに訳したので、それをもう一度縫い合わせるのには特別の才能を必要とした」といったものでありました。まあ、イギリス人特有の、チョット嫌味たらしい皮肉がよく出た表現ですね。然し、力松を擁護する訳ではありませんが、6歳から12歳までの寺子屋教育を受けただけで船に乗り組んだ僅か13歳の少年の日本語は、学習年齢からして現代の小学生並みで、英語にしても耳から自然に覚えた程度と思いますので、まあ通訳と言ってもそんなものでしょう。逆に国家間の交渉の場の正式通訳などよく頑張ったなあと思います。度胸がありますね。

力松は、同じ年の1855年に、今度は日英和親条約の批准書交換の際にも、通訳として長崎にきております。この条約は1854年に長崎で調印されたものですが、その時の通訳は力松ではなく、庄蔵一行とマカオで共同生活をしていた尾張組3人のうちの最年少であった音吉でした。因みに、音吉は上海のあとシンガポールに移り住みシンガポール最初の日本人定住者として記録されております。

その後、力松の記録は途絶えますが、しっかりとした仕事もあり、通訳としても活躍し、家族に囲まれて、平穏な人生を香港で全うしたと思われます。日本の領事館が開設された1873年には、生きていれば力松は53歳になっていたでしょうが、庄蔵同様に総領事館の記録には出てきておりません。力松は日本を恨んでいたという事なので、自ら日本領事館を訪れる意思は全くなかったのでしょう。

このように、庄蔵と力松は、香港にしっかりと根付いた生活を確立しましたが、他の熊太郎と寿三郎の香港人生は恵まれませんでした。

熊太郎は庄蔵と同じ年でしたが、無口で病気がちであったため、表に出る事もなく、1845年に他の3人と一緒に香港に移住して間もなく病死したとあります。

最後に寿三郎ですが、1855年に力松が函館で語ったところによると、アヘン吸飲患者となり、1853年8月に病死したとのことです。

次回からはいよいよ明治に入ってからの日本人の活躍についてお話したいと思います。

筆者紹介

福光博一
1944年、東京生まれ。オフィス向けにコーヒーを提供する「ダイオーズ香港」(本社東京)の董事総経理。1994年に商社駐在員として来港。その後香港日本人倶楽部に在勤中、在留邦人の歴史に興味を抱く。
ダイオーズ香港HP: www.daiohs-hk.com/home

写真キャプション:ギュツラフの墓 Karl F.A. Gützraff  1803~1851 Happy Valley競馬場の入口Cの対面が墓地入口。入って右に折れてすぐの場所

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